金剛寺の仏伝図

絵解き口演家
長野郷土史研究会副会長
小林玲子

金剛寺所蔵のこの二幅の絵伝には、釈迦(釈尊)の出生直前から、涅槃直後までの行跡が描かれている。
このような絵は他に類がなく、独自のものと考えられる。絵の内容から、「仏伝図」と名付け、内容が分かる範囲で、各場面に番号を振り、その解説をする。

仏伝図(第一幅)

仏伝図(第一幅)


①釈迦は人間となる前、兜率天(とそつてん)という世界にいた。白い象の姿となった釈迦は人間の世界に降り、カピラ国の浄飯王(じょうぼん)の后、摩耶夫人(まやぶにん)の胎内に入った。 摩耶夫人も夢の中で、白い象が天から降りてきて自分のお腹に入る夢を見た。その直後、摩耶夫人は懐妊した。

②白い象となった釈迦が、人間の世界に降り、摩耶夫人の胎内に宿ったことを全て語ると、浄飯王は婆羅門(ばらもん)僧にその夢を占わせた。

③出産間近になった摩耶夫人が、実家に帰る途中、木々の茂るルンビニ園に立ち寄り、小枝に手を伸ばすと、その右脇から
釈迦が誕生した。

④誕生したばかりの釈迦は七歩歩き、右手を上に上げ、左手を下に向けて、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えた。

⑤釈迦の誕生を祝って、天からは難陀(なんだ)竜王と優婆難陀(うばなんだ)竜王が甘露を注いだ。
しかし摩耶夫人は、七日後に亡くなり、釈迦は母の妹に育てられた。釈迦はカピラ国の王子として何不自由なく育った。
ある時、城の外に出て生老病死(しょうろうびょうし)を見て、世の無常を感じた。
父王は釈迦が出家しないようにと結婚させて、釈迦は一子を設けた。

⑥二十九歳で出家を決意した釈迦は、御者だけを連れて愛馬にまたがり城を出た。途中で御者を帰して、出家して僧となっ
た。

⑦父王の計らいで、五人の従者が遣わされ、釈迦は山中で六年間、命がけの苦行を続けた。

⑧苦行が無意味であると思い至った釈迦は、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で瞑想に入った。そこに悪魔が次々にやって来て、釈迦をそそのかした。しかし釈迦は悪魔の誘惑を退けて、ついに悟りを開いた。

⑨釈迦は、一緒に苦行を行っていて釈迦の元を去った従者五人を訪ねて、説法を行った。この最初の説法を、「初めて教え(法)の輪を展開させた」という意味で、初転法輪と言う。

⑩釈迦は、亡き母摩耶夫人が生まれ変わっていた忉利天(とうりてん)の世界に昇り、母のために説法をした。


仏伝図(第二幅)

仏伝図(第二幅)


⑪八十歳となった釈迦はお弟子たちを連れて、自分の生まれ故郷の方角、クシナガラを目指して旅立った。 途中で鍛冶屋の
息子、純陀(ちゅんだ)の家に招かれた釈迦は、きのこ料理でもてなされた。それにあたったのか釈迦は激しい腹痛に見舞われた。
それでも苦しみに耐えながら旅を続けた。熙連河(きれんがわ)を渡ると沙羅の木の林があった。 死が間近に迫っていることを悟った釈迦は、最後の説法をして、弟子たちにまもなく涅槃に入ることを伝えた。そして沙羅双樹(さらそうじゅ)の元で、頭を北にして、顔を西に向け、右脇を下にして入滅した。

⑫釈迦の弟子の阿那律尊者は、忉利天(とうりてん)に生まれ変わっていた御母、摩耶夫人に釈迦の入滅を伝えた。
阿那律尊者(あなりつそんじゃ)の案内で降ってきた摩耶夫人のために、釈迦は大神通力をもって身を起こして、この世の無常の理(ことわり)を説いた。

⑬入滅に遅れた弟子の迦葉(かしょう)が到着する前に、多くの力持ちが釈迦の棺を持ち上げようとしたが、びくともしなかった。

⑭さらに釈迦の棺が浮上し、 クシナガラ城の上空を七回旋回した。

⑮遅れてきた弟子の迦葉が棺に近づくと、釈迦は棺の中から両足を出した。迦葉は釈迦の足に自分の頭を付けて五体投地をした。

⑯釈迦は棺に納められ、七日間の供養を経て荼毘(だび)に付された。
それはクシナガラに住むマッラ族が行った。 クシナガラにある香、花輪、楽器のすべてを集め、さらに五百組の布を集めた。
そこで舞踊、歌謡、音楽、花輪、香料で釈迦の遺体を敬い、重んじ、尊び、供養し、 天幕を張り、多くの布の囲いをつけて、毎日、同じ儀式を行った。
釈迦の遺体を火葬に付したところ、遺骨だけが残った。

⑰八つの部族の間で、舎利(釈迦の遺骨)を巡る争いが起こった。
八部族とはマガダ王アジャータサットゥ、ヴェーサーリーのリッチャヴィ族、カピラヴァットゥのシャカ族、アッラカッ
パのブリ族、ラーマ村のコーリヤ族、ヴェータ島のあるバラモン、パーヴァーのマッラ族、クシナガラのマッラ族だった。
舎利は、一人の婆羅門僧の仲介で八か国の国王に分骨された。

⑱八か国の国王たちは、分配された舎利をそれぞれ持ち帰り、各自が塔を建てて供養した。