権僧正榮性師

(えいしょう、明和5年(1768年)4月14日 – 天保8年(1825年)10月13日)

第二十世榮仙法印

 今から二百五十年も前に生まれ、金剛寺に入寺しながらの住職を務めたことのない権僧正榮性師を顕彰することはどんな意味を持つのか記して顕彰したい。

大伝法堂内に安置されている等身大の榮性木彫像

 金剛寺中興歴代法印名が第一世俊算法印からはじまり第九世榮壽法印と第十一世法印榮賢法印の間の世外権僧正榮性を金剛寺への貢献の徳を称え、敬意を表する意味で金剛寺十世と数える。
以下、日本の仏教界、そして金剛寺の隆盛に多大の貢献をした偉大な宗教家としてその生きざま等々にも触れてみたい。

 第十五世榮詮法印(1821~1896)が書き残した『榮性録』というものがある。
これを参考に榮性師の生家をお訪ねしお話を伺ったり、紀州(和歌山県)の根来寺を訪れその偉大な業績のひとつである大伝法堂を拝観し、榮性像を写真に収めたり、東京の護国寺を訪れその墓参りをしたり、隠居して遷化した誉楽寺を訪れてお話を伺うなどその足跡を辿ってみた。

生い立ち

 明和五年(1768)四月十四日、更級郡八幡村(千曲市稲荷山八幡)の浦澤勝右衛門の二男として生まれ幼名を又治郎と言った。
家は武水別神社の近く、西小路で大百姓の傍ら旅館業を営んでいた。
当時、地方では恵まれた家の生まれで才能があってもそれを十分伸ばす機会はなかなか少なく、夜になると祖父に話をしてもらうことが何よりの楽しみであった。

 『金剛寺史』には「十歳のとき金剛寺の榮壽法印が八幡詣りの砌(みぎり)、浦澤家に逗留しこの少年と出会った。偶然にこの天才少年を発見してそのまま伴って寺に帰り、惣領弟子の地位を与えた。」とある。
稲荷山から竹生村(小川村高府)まで途中二つの峠を越える約24㎞の山道で、たった十歳の少年の胸中はいかばかりだっただろうか。
二月に家を出て四月十二日には榮壽を師として得度(僧侶となること)した。
仮名(けみょう)を諦純、実名(じつみょう)を榮慶、後に榮性と改めた。
この師弟は不思議にうまが合い、榮壽は全力を傾注し、弟子もまた師匠の熱意に感謝して喰い付くような勉強振りであった。
使い走りから水汲み・掃除と働くほかは昼も夜もなく経の読み方や漢籍の句読に熱中した。

 そして十五歳にして師と同じ資格である「権大僧都」になってしまった。
榮壽師匠は眼を疑って他の人に確かめてもらったほどであった。

榮性が持ち帰った大般若経全六百巻


 十九歳のとき弘法大師九百年忌で豊山 (奈良・長谷寺)に登り、交衆(学問僧・この時榮性は今で云う短期留学)という共同生活に入った。
三月一日、一旦山を下り入京して黄檗山刊の最極上の大般若経全六百巻(写真)を求めて、馬四頭に積んで中仙道を下り無事仏前に供え師匠に報告した。

 十九歳で法印の位に叙せられ、師匠はこれは信州の山寺金剛寺で生涯を終わらせる人間ではない。
本人の天分を伸びるだけ伸ばしてやろうと覚悟を決め豊山に本格留学させた。
榮性はそこで雲井坊蓮阿に仕えて学門に励んだ。はじめから権大僧都の資格をもって登山することは大変異例のことであった。

 二十八歳で一旦信州に帰り金剛寺に師匠を訪ねた。
金剛寺を辞して八幡の実家浦澤家に立ち寄り、八歳年下十四歳で同族の惣次郎(従弟・後の榮賢)を連れて豊山に帰り出家させた。

大日如来を寄進

本尊大日如来像


 法弟でもある金剛寺第十一世と頼む榮賢は金剛寺に四年住し、再度豊山に登山中わずか二年で遷化(亡くなる)した。
榮賢という人は榮性にも劣らぬ程の才能に恵まれた人で、穂刈(信州新町)の安光寺の弟子であったが榮壽引退後、請われて金剛寺の住職となっていた。

そして榮賢が浦澤家の同族という証があった。
八幡の榮性の実家を訪れた際、御主人(浦澤家第12代当主)が「家の過去帳に『金剛寺権大僧都阿闍梨法印榮賢』と記したものがあります。」とおっしゃり、黒光りする位牌を見せてくれた。
金剛寺にもあったであろう当時の位牌や過去帳は明治三十九年の火災によって焼失したため今は唯一大切な資料となっている。

 榮性は榮賢の死を大変悲しみ、その菩提のため紀州侯の周旋で本尊大日如来像を仏師に刻ませ、豊山にて開眼供養の後金剛寺に納めた。
 文化七年(1810) 榮壽師匠が遷化した。
生涯最も恩を受け、また尊敬もしていた師匠の恩を性は死しても忘れず、金剛寺に事あるごとに浄財を投じた。

根来寺時代

 文化十一年(1814四) 四十七歳の時、紀州大納言より菩提所蓮華院の学頭にとの意向で、奈良の長谷寺から紀州根来寺に入った。
榮性はその頃既に経典の解説書を数多く世に出し知名度も高まっており、実績を買われたいわばスカウトされての入山であった。

 翌年には「権僧正」という勅任の栄位についた。権僧正は勅任官であるから御所清涼殿への昇殿、江戸城への登城も許された。
僧正・権僧正は僧侶の乱行不正を糺す役目で、徳望のある人が選ばれる役職であった。

 さて、根来寺は高野山上に大伝法院・密厳院を開いた覚鑁(かくばん)を祖師とし、この流れを汲む智山・豊山派の寺院は現在全国で六千余を数える一大聖地である。
空海の教えを自らの密教の形にして現した大伝法院は金剛峰寺との抗争によって焼き払われ、後山下の現在の根来寺の場所に移ったと云われている。

 その後覚錢を継承した僧侶達によって大伝法院や大塔等が復興され真言密教の形が再度出現した。
その後数多くの法難を経たが中でも天正十三年(1585)の秀吉の紀州攻めにより根来寺は炎上する。
本堂大伝法堂・大塔(国宝)は辛うじて焼け残るが、本尊は運び出され、京に移されたという。(後、徳川の世になって戻された)
また大伝法堂は解体され、立派な材が故、何れかの築城に転用されてしまったのだろうか。

 時代が徳川に移ると根来寺は紀州家の庇護を受け多いに興隆した。
寛政九年(1797) 紀州家を大檀那に蓮華院主法住が再興を発願した。
間もなく栄性は蓮華院学頭として豊山から招聘され、中心となってこの一大事業を遂行することになるのである。

紀州根来寺、左:大塔、右:榮性が再興した大伝法堂


 文化十四年(1817) 大伝法堂の普請に着手し、信濃から始めた全国の勧化が始まった。
長いこと失われたままになっていた大伝法堂は榮性の十年間の努力によってついに文政十年(1827)立派に甦った。

大伝法堂が失われて実に240余年ぶりのことであった。
内部には丈六町(一丈六尺、4.8m)の大日如来像・金剛薩埵像・尊勝仏頂像の三体が安置され、新義真言宗総本山の密教寺院根来寺の最も大切な場所とされている。

 榮性は更に大塔内陣の修復、不動堂の礼堂の建立、伝法堂前の石段の造作等次々に境内を整えていった。
功績は大きく「大伝法院中興第四世」としてほぼ等身大の立像が刻まれ、大伝法堂内の須弥壇上に安置されている。

 平成二十六年秋、 第二十世榮仙は根来寺を訪れ榮性像をねんごろに供養した。
実に金剛寺と榮性の二百有余年ぶりの再開であった。

護国寺護持院時代

護国寺本堂


 仏教世界に広く知れ渡った榮性の業績は当時の幕府に知れるところとなり、天保四年(1833) 徳川宗家に請われて、神田錦町の護持院に入り護国寺の住職も兼務した。

紀州根来寺を去るにあたり治宝(はるとみ)侯より拝領した花瓶は(写真)紀州粉河之鋼華生一口で高さ七寸、腰には浪を彫りつけた銅製の立派な代物である。

榮性はそれを金剛寺の什物にと馬で運ばせている。 根来寺での立派な功績に対する感謝のつまった什物は今金剛寺に伝えられている。

 また金剛寺十二世榮虎の代に釈迦縁起図二幅 (⇒仏伝図二幅ページはこちらから)を金剛寺に寄進している。
天保六年(1835)に恩師榮壽和尚の追善供養の句七十五首と自筆の八祖図に添えて掛物にして榮光住職に贈っている。
その一句一句を読んでみると親にも勝る恩師榮壽師匠を失った悲しみや世の無常、そして自身の葛藤まで榮性の人となりがよく表わされている。
自身の健康にも自信が持てず、引退を決意したのもこの頃ではなかろうか。
(※幕末まで護国寺と護持院は並立していたが、明治維新後は合併して護国寺一山となった。)

譽楽寺時代と二幅の画軸

 天保七年(1837)十一月二日榮性六十九歳で隠居して田端の譽楽寺へ移り一年に満たず、翌八年十月十三日七十歳にて遷
化した。
今から約180年前のことである。やや小高い丘の途中にある譽楽寺はこじんまりとして良く整備され、大木に囲まれた墓地の一画に榮性師の墓石(供養塔か、実際の埋葬地は不明)があった。(写真)
ここでも二十世榮仙法印が供養しその遺徳を称えた。

 そのあと庫裏に案内され一幅の軸画を拝見した。
後日談だが、頂戴した機関誌「田端法類だより」二十八号、(平成4年4月2日発行)の記事に、「譽楽寺と根来寺の関係」が特集されており、根来寺で大きな功績をあげた榮性が最後を譽楽寺で遷化した意味も理解できてきた。
榮性について詳しく記されその功績を称えていた。
その記事に寺所蔵の榮性に関係した軸物のひとつ、画僧大岳が描いた榮性の肖像と榮性作の歌が載っている。(写真)

 驚かされたことは、後日八幡の実家浦澤家をお訪ねした折り、近親者所蔵の一幅の軸画を見せていただいたときであった。
榮性直筆のこの絵(写真)は、構図が譽楽寺のそれと全く同じである。二幅の墨書の歌と「本柱六本建てたら中空にありがたい梵字が現れた」との一節をみるに、大事業半ば、更なる勧化のためにあつらえたものではないか。
二幅の内譽楽寺所蔵のものは勧化の旅に、恐らく榮性が携えたもので、護国寺、譽楽寺へ移ってからも大切に思い終生手放すことがなかったのか、または勧化の助力を仰ぎ譽楽寺に託したものだろうか。

 榮性の勧化の旅は信州を皮きりに関東一円から越後と広範囲であった。信州へは同様のものを榮性自身が模写して意気
揚々と故郷の実家に届け役向きのことを語ったのであろう。
当時から浦澤家は八幡の大頭祭頭人を務める有力者で、更に榮性の栄えある役目のため、当家も近在への勧化の輪を広げるのに一役買ったでと想像する。

おわりに

 権僧正榮性は学識深く、徳望高く、浄財を勧化しそれを惜しみなく寺堂の復興や維持に注ぎ、私物化することはなかった。書画や詩歌にも秀でその才を存分に発揮した。晩年には人々に生活の方法を教えている。

 榮性には無尽蔵ともいえる資源があった。勧化と著述である。
高僧ひとたび鉢を持って街頭に立てば人々は競って喜捨した。一書の刊行なれば宗門の人々は競ってこれを手に入れようとした。自身は常に簡素な生活に甘んじて有用の財は惜しまず金剛寺に托した。

 寺には本尊の大日如来を始め仏伝図二幅や八祖図等の軸物、什物の花瓶等を寄進したのみならず、度々資金を寄進して金剛寺の護持興隆につくした。

金剛寺境内にある榮性の供養塔


 当時僧侶の風紀が乱れ罪に問われる者が多かった時代、好学の精神を徹底引き締め、若き学僧の面倒をよく見、導いた。

金剛寺の歴代法印十九名の世外でありながら、師とも親とも仰ぐ榮壽法印の恩を終生忘れず、誰よりも金剛寺を愛し、真言の世界を極めた偉大な権僧正榮性師をここに謹んで顕彰するものである。