金剛寺歴代法印名

(世外権僧正栄性を十世とした場合)


第一世俊算法印
中興の祖、出身不明。大日方長利の招きで現在の地に夏和村三願寺にあった釈迦如来座像を勧請して釈迦堂を建立する。


第二世俊榮法印
不明。


第三世俊鏡法印
慶安二年(1649) 第三代将軍家光より釈迦堂に山林竹林の諸役など免除の朱印状を受ける。


第四世秀鏡法印
不明。


第五世俊全法印
 寺入り口の明治三十九年の火災で焼けだされた石碑の『昔甲乙住持宗派定まらず』、又『正に俊師(俊全)に至り瑜伽(ゆが)宗(真言)を称す』の一節がある。
このことから中興四世まで住職・宗派が流動的であったがこのとき真言宗となったことがわかる。
この頃から徐々に山容が整っていったのであろう。
また貞享二年(1685) 秀光寺ー当時金剛寺の隠居所で薬師如来を祀る。現在の修光寺-再興。


第六世良意法印
赤田村専照寺で灌頂。宝永元年(1704) 俊全法印と共に金剛寺を再建する。


第七世良榮法印
享保八年(1724) 五年金剛寺に住し、遷化する一年前、総旦(総代)あてに遺言状を残している。
常に身辺整理して後任のことから小僧の始末、また彼らへの形見分け、時借りの金銭まで克明に記している。


第八世榮雅法印
前総代で上夏和の松本健弘方の出身、前住の遺言どおり千見善福寺から転住。
このことは当家の過去帳にも記載があるとのこと。宝歴十一年(1761) 遷化。


第九世榮壽法印
安永三年(1764) 七世良榮の遺言状にある「小僧」のひとりとはこの人か。
高府中町の伊藤晃義方の出身。八幡の浦澤家に投宿した折、将来権僧正榮性となる当家の次男又治郎(九歳の時)の非凡さを見いだし、金剛寺に連れ帰って総領弟子としたと『金剛寺史』は云う。
『寺史』には整合しない余談だが過日編者が浦澤家を訪ねた折、八幡大頭祭の記録誌を拝見した。
そこに又治郎の父勝右衛門が五番頭々人を務めた旨の記録があった。
榮壽法印は大頭祭に参画したのか祭参りのため頭人の浦澤家を宿と定めたのか。毎年の大頭祭を通じて金剛寺と浦澤家は交流があったのかとも更に想像する。
でないと年端もいかない子を僧侶とはいえ初めて遭った者に託すだろうか。
金剛寺は今も守護向山八幡社を祀ることに何か大頭祭との縁(えにし)を感じる。文化七年(1810)遷化。


世外 (第十世) 権僧正榮性※権僧正榮性ページはこちらから
明和五年(1768) 八幡村浦澤家生まれ、榮壽法印の弟子。
紀州根来蓮華院住職の時、秀吉の根来攻め(1585)で破却された根来寺本堂大伝法堂の再建を十年の歳月を要し二百四十余年ぶりに成した。
その後請われて徳川宗家祈願所護国寺、 護持院に昇転。天保五年(1833) 江戸田端の譽楽寺で遷化する。


第十一世榮賢法印
 『金剛寺史』によれば榮賢は樊性と従弟であると思われる節があると述べている。
しかし八幡浦澤家の仏壇に「金剛寺権大僧都阿闍梨法印賢』の位牌が祀られている。
無論『寺史』著者もこのことは承知していて浦澤家に問い合わせたがはっきりした回答が得られなかったようだ。
「この戒名は豊山が書いて送ったものだろう。それを本家に留めて何とはなしに供養して居ったものとしか考えられない。」と結んでいる。
何れにせよ榮性に負けぬ才能の持ち主で穂苅の安光寺の弟子から金剛寺に住し四年の後、榮性の勧めで豊山に登山するが、二年目の文化五年(1808) 急逝。


第十二世榮伝法印
文化三年(1806) 榮賢法印を継ぐ。釈迦堂修理・大日如来開眼。


第十三世榮虎法印
寛政十年(1798) 小根山森家生まれ。
文政四年(1822) 二十一歳で住職となる。文政十二年(1829) 亡くなる。


第十四世榮光法印
天明八年(1788) 荻野久保鎌倉家生まれ。天保二年(1831)住職となる。
榮賢法印の弟子となるが榮壽法印に育てられる。
弘化三年(1846)亡くなる。


第十五世榮詮法印
文政八年(1821) 小根山村西沢家に生まれる。天保十四年(1843) 高厳寺から金剛寺へ。
嘉永三年(1850)住職となる。 明治二十九年(1896)亡くなる、俳人小川舎圭月。


世外臨興字榮麟
栄詮法印が退任する明治十五年には既に高厳寺住職となっており、金剛寺で弟子の栄昭法印が栄詮法印の後継住職となった。


第十六世昭法印
嘉永二年(1849) 瀬戸川村(現小川村成就)松本二千雄方の出身。明治十五年(1882) 栄詮法印を継ぐ、
明治三十九年(1906) 火難に遭い金剛寺が焼失。
明治四十二年(1909) 再建の志半ばで亡くなる。


第十七世榮蕃法印
明治八年(1875) 栄昭と同じ松本家生まれ、栄昭の甥。明治三十三年(1900) 高山寺住職。
明治四十五年(1912) 金剛寺住職となる。 大正二年(1913) 本堂・釈迦堂再建。 大正十三年(1924)鐘楼・梵鐘再建復旧。昭和十五年(1940)亡くなる。


第十八世榮山法印
明治三十四年(1901)芹田村小野塚家に生まれる。
大正九年(1920) 榮蕃の長女さかえと結婚。 信田村蜜蔵院 小県郡龍法寺を経て昭和十五年(1940)金剛寺住職となる。
昭和二十七年(1952)現梵鐘掛かる。 昭和三十八年(1963) 鎮守堂落成。
昭和四十五年(1970)亡くなる。


第十九世榮嶽法印
大正九年(1920)金剛寺住職の子として生まれる。昭和十七年(1942) 龍法寺住職・昭和五十一年(1976) 金剛寺住職となり、一時玉泉寺住職を兼務する。 平成十二年(2000) 亡くなる。


第二十世榮仙法印
昭和三十三年(1958) 高山寺に生まれる。昭和四十六年(1971) 赤田専照寺にて得度。
高野山専修学院卒。昭和五十八年(1983) 高山寺住職。 平成七年(1995)金剛寺住職兼務。
平成十九年(2007) 権少僧正に任命される。 平成二十七年五月九日に金剛寺二十世として晋山。