金剛寺沿革
当山は、寺伝によれば今から約760有余年前の建長年間(1249~1256北条鎌倉幕府政権)、釈覚心僧都がこの地に錫杖を立て開山したと謂われている。
戦国の世、金剛寺は香坂・小川氏の合戦で香坂方の大日方氏のやむなき焼き討ちにより、本尊と一切の記録・寺什物を失った。
三十幾年を菅沼と蕗畑の間に仮寓を余儀なくされていたが、天文年間、世が移ると且つて金剛寺を焼いた大日方一族の長利だが元来仏道信仰が深く、金剛寺再興のため俊算法印を招いた。
今の地に釈迦堂を建て夏和村舟平の三願寺にあった釈迦如来像(伝運慶作)を勧請し法灯を継ぐことができた。
現在、金剛寺は新義真言宗の流れを汲む奈良県長谷寺を本山とする豊山派の一山であるが、『金剛寺史』に依ればこれは貞享二年(1685) 中興五世俊全からのことである。
大日方氏の庇護により釈迦堂を建立し、中興が成ったことを斟酌すると宗派は武田方の影響があったのか。
ただ境内に残る焼け出された石碑に香坂・小川氏の合戦後について 『昔甲乙住持宗派定まらず」の一節が残されている。(金剛寺史による)
また今当山と隣接する武部八幡宮とは別に金剛寺守護の向山八幡社を祀っていることをみれば創建以来いっときは華厳宗だったかもしれない。
さて近く明治三十九年には、本堂・釈迦堂・庫裡再三の焼失に遭遇するも発見した下市場・夏和衆がいち早く駆け付け、 本尊大日如来・釈迦如来は難を免れることができた。
八年の歳月と多額の浄財を費やし、大正二年には釈迦堂を併設した現在ある本堂の再建を成し遂げた。
大正十三年には、鐘楼建立・梵鐘の設置がなされ、本堂内部の造作、内陣荘厳がほぼ整うには更に榮蕃・榮山二代に亘り、以来五十有余年を要した。
昭和五十二年、前住榮獄和尚晋山に際して本堂改築・庫裡新築がなされようやく現在の山容となった。